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備忘録とかに使えそうなノート

社会人博士としての博士課程を振り返り

タイトルの通り博士課程に進学しました。そして無事に博士(工学)の学位を取得することができました。
といってもストレートで進学した訳ではなく、社会人博士として通常課程で入学していました。
そして某氏に触発されて自分もこの手の怪文書を書こうかと思い始めました。思った以上は「鉄は熱いうちに打て」のごとく動いておいた方が身のためなので、頑張って小学生並みの感想文をふわっと書いていきます。

 

なぜ社会人博士をやろうと思ったのか

結論から言うと、いまだに謎です。
記憶しているのは、入学する前の12月になって急に「社会人博士やるか」と思ったことだけです。たまにあるじゃないですか、全ての論理をスキップして急に結論が頭に浮かぶこと。
そういうことで急遽研究室の指導教員に連絡し、社会人博士として受け入れていただけるかのご連絡・ミーティングを行い快諾していただけました。もとより「博士を取れると確信している人しか受け入れない」とおっしゃっていたため、取れるとのご判断をいただけたと思う。
そしてあれよあれよといううちに入試、合格、入学と駒を進めて社会人博士としての生活の準備が整いました。
入学金や授業料の振込登録のために訪れた場所が銀行ではなく系列の証券会社で、窓口で諸々を渡してから「あの、こちらは証券ですので場所をお間違えかと...」とスタッフ様を困らせてしまったのは良い思い出。

 

D1

社会人博士といえど、通常課程で入学しているため当然単位を取らなければなりません。とはいえ、学士・修士に比べれば必要な単位数はよっぽど軽量であるため、大きく苦労することはないです。

 

...と、最初は思っていました。

 

なにせ社会人であるため普段の業務があり、研究があり、その上で講義を受けてレポートを作成・提出しなければならないからです。このご時世となってオンライン化が進んでいることもあり、リモートでの受講が可能であったことが唯一の救いで、これがなければ最初から挫折の未来が待ち受けていたかもしれません。
このような背景から、仕事・研究・講義の3つを並行して進めるいきなりハードモードな生活での幕開けとなりました。「どうして私は今こんなことをしているのか」と思った回数、数知れず。

なんとかして講義を無事に乗り切るものの、その空いた時間分研究に流れ込むだけなので日々の大変さは全く変わらずでした。この時の自分の生活スタイルは非常にシンプルで、

平日:起きる→仕事する→研究する→寝る
休日:起きる→研究する→寝る

これを週7で繰り返す。これだけです。当時明確な自粛期間ということもあり、良くも悪くも引きこもりをせざるを得なかったのである意味ちょうどよかったです。書くのは簡単ですが実際はやはり大変で、日々の睡眠時間が2〜4時間程度だったと思います。
こんな生活をしているとガタがくるのは明白で、仕事中に体を壊してしまいました。熱が40度ほどに達しており人生初の救急車を呼びました。救急隊員がきてくださったものの、このご時世で発熱となると受け入れが難しいとのことでそのままお帰りになられました。当時は病院のスタッフもとても大変でしたでしょうから、致し方ないことです。
こんな目に遭っておきながら懲りてないのか、快復してからまた↑の生活に逆戻りしていました。一般にジャーナルに関しては投稿してから採択されるまでには大きく時間がかかるため、それに対しなんとなくで打ち立てたスケジュールに遅れが生じていることで焦っていたのだと思います。

研究実装自体はデバッグすることが多く、結構な時間数字の羅列を目grepしていました。この集中力がどこから出てきたのかは不明です。ところが長い期間かけて苦労して実装したものが上手く性能が出せず、仮に上手くいったとしてのシミュレーションをしても目標性能に到底及ばないことが判明し、これまでの苦労が水の泡と化す事態になりました。
苦労して実装したものが上手くいかないこと自体は誰しもあることですが、ちょうどこの頃仕事の方でも大変な事態になったこともあり、精神的に全く余裕のない期間となりました。ただでさえ短かった睡眠時間がゼロに等しくなることもありました。
急遽指導教員ともミーティングを行い、どのように「転進」するかということを話し合い、自分のメンタル状態でもできることからまた積み上げていく方針を取りました。このミーティングのおかげで失踪することなく持ち直すことが出来たと断言できます。

そこからなんとか持ち直し研究成果をまとめ上げたところでジャーナルに投稿フェーズとなりました。ジャーナル投稿にまつわるいろは(探し方やカバーレターなど)は、先に経験していた研究室の後輩から教えていただきました。とても詳しく教えてくださり本当に感謝しています。
ジャーナル投稿ではそもそも査読に回らないEditor's rejectがあるため、執筆時点でも精神的なハードルを感じつつ恐る恐る動いておりました。そしてそのEditor's rejectを受けてしまいました。
ですが、前述の水の泡案件に比べると精神的なダメージはあまりなく、無の状態で次の投稿先を探していました。
なんとか投稿先を見つけ出し、論文を修正した上で再投稿したところでD1の目ぼしいところは終わります。


見直したらものすごく地味な1年間ではありませんか....

 

D2

基本的な生活スタイルはほぼ変わっていないのでその辺は割愛。

 

先ほどのジャーナルからMajor Revisionの通知が来たのはGWの直前でした。少なくともEditor's rejectがなかったことに喜んだ記憶はあります。ですが蓋を開けてみると、ご指摘の量が結構な量で、対応しきれるかどうか正直不安でした。幸いなことにGW期間があったため、この期間は半日を除いてずっとこの対応をしてました。ご時世の規制が緩和されたこともあり、残りの半日は仲良くしていただいている友人とイベントでビールを飲みに行きました。ビールって美味しい。
そんなこんなで対応を完了させ、7月にはMinor Revisionの通知が来ました。ここまで来ればあと一押しだと慎重に事を運び再投稿しました。
acceptの通知が来たのは、友人の結婚式のために前泊していた時のことでした。友人と同室だったのですが、社会人博士をやっていることは誰にも言っておらず水面下のことでしたのでこの喜びを表に出す事はありませんでした。ですが代わりに妙にテンションが高かったと思います。ビュッフェ美味しかったし。宿泊部屋で行われた友人代表スピーチのリハーサルが面白すぎたし。

 

この時点でacceptをいただけたため、ここでふと妙な事を思いつきます。

「もしかして頑張れば今年度で修了出来る?出来たら色々と面白い?...うん、面白い!」

実のところジャーナルとは別で国際会議に向けた研究は裏で行なっており、これで上手く事が運べば可能なはずである。
この旨を指導教員に相談したところ「本当にやろうと思うなら今週中までなら学位論文のための手筈を取ることが出来る」とのことで、事務的には滑り込みセーフで可能とのことでした。

 

さて、自らの首を絞める回 〜第2期〜の開幕です。

 

そうと決まった途端にやることが急増しました。当然です。国際会議のための諸々に加えて予備審査のための書類準備や学位論文の概要作成などを仕事と並行しなければならないのです。
D1で散々大変な目に遭っているのだから、これくらい乗り越えられるはずだ!!!と、ノリと勢いを出していたのですが、案の定体を壊します。ただ前回のような酷いことにはならず、ちょうど土日安静で快復しました。全く学習していないようである、この人。
後でも触れますが、こんな中でも無事に国際会議論文を投稿し、予備審査のための準備も着々と進められたのはスケジューリング管理をちゃんと行なっていたからだと思います。あとは今は存在しない謎の体力。たぶん寿命を幾年か前借りしている。

 

時は進むこと予備審査。ある意味博士課程の中で最も重要である(と思っている)ため、生きるか死ぬかという考えがずっと頭の中を巡っていて、審査の部屋のセッティングをしている間緊張しっぱなしでした。指導教員が早めに来てくれて、私の雑談に付き合ってくれたおかげで少し気が楽になった記憶はあります。
ただいざ発表が始まると緊張は消えており、スクリプトを全く見ることなく主査・副査の先生方の顔、時折スライドの図を順々に見ながら50分程度喋れていました。
質疑応答ですが、終始穏やかに...なんてことはなく、少し波乱が起きました。質問に対する自分の応答能力が低かったことが最大の原因だと思います。思ったよりも質疑応答の時間が伸びました。発表中にはなかった緊張が輪廻の果てより舞い戻ってきた瞬間でもありました。最終的にはいただいたコメントをきちんと学位論文に反映させ、誤解のないようにスライド修正を行うということで、無事に合格をいただけました。質疑応答が終わってから審査のために部屋の外で待機する時間、恐ろしく長い。怖い。

こうなれば後は気合いで走り切れるはずだ!!(n回目)ということで、年明けに迎える本審査、ひいては学位論文の完成に向けて疾走感800%程度で臨みます。その最中で投稿していた国際会議論文のacceptの通知をいただきました。
学位論文作成、国際会議論文のcamera-ready版(実際に出版される論文)作成、本審査向けスライド修正、書類作成などまたしてもやることが急増しましたが、さすがに学習しました。体を壊さないように行動時間を制限することにしました。
制限したことによって得られた時間は友人たちとオンラインでわいわい通話しながらゲームしたりすることに多く割けました。結構至福のひと時でした。

 

年は明けること2023年、いよいよ本審査です。
といっても予備審査と大きくやる事は変わらないため、粛々と修正点などを交えつつプレゼンして質疑応答を行いました。Final defenceとはよく言ったもので、特に質疑応答では本当に防御している気持ちになってました。
ひと通りの事を終え、審査のために再度部屋から出て行きます。予備審査の時よりも長くとても緊張していました。長く感じていただけかもしれません。結果、無事に合格をいただけました。近くにあった椅子にへたり込んでました。指導教員は「かなりいい形で審査が出来た」と言ってくださいました。というのも本審査に向けて予備スライドをやや過剰なほど作っていて、その中で「これは細かすぎてさすがにいらないでしょう...」と思っていたスライドがまさかの質疑応答で大活躍していました。いくつかニッチな質問が来た時にも大半はその予備スライドたちを出しつつ返答出来ていました。あの時の私、大変よくやってくれた

本審査は終えられたものの、まだ学位論文の最終版と国際会議への発表が残っているため全然気は緩みません。急いで学位論文の修正を行い、国際会議のためのスライドを作成していました。
国際会議での発表に関しては、当日指導教員が予定の都合上来られず自分一人で臨むことになったのですが、なんだかんだまたしてもノリと勢いで乗り切った気がします。ひどいブロークンイングリッシュを喋りながらなんとかした感じです。少なくとも何も言えずに固まるといった事態にならなかったことだけは及第点かと思ってます。思い込むことにします。させてください。

そんなこんなで在学の最後までやること目白押しな、全く映えないのに非常に濃すぎる2年間を過ごし、無事に授与式にて学位をいただくことが出来ました。

 

D3

というわけでありません。


総括

指導教員からは、「博士課程にストレートで進学しても博士が取れる・取れないには一定の割合がある。そのような中で社会人博士をやりながら学位を取れたのはよくやったと思う」とのコメントをいただきました。あの時に私が学位を取れると確信し快諾してくださったことには感謝です。

上記の駄文を書きながら自分が上手く事を運べた要因を考察していましたが、「スケジュール管理をきちんと行なっていた」ことだと思います。特にジャーナルはボトルネックになる案件なので、そこから逆算して「この期間までにこれが出来ていることが望ましい」と節目を打っておき、ミーティングの度にそのスケジュール感で問題が出てないか、などを綿密に話し合っていました。またEditor's rejectや長期間に及ぶ査読期間というものは往々にしてあることだったため、「もしEditor's rejectになってしまった場合の次の投稿先を見繕っておく」「この期間になってもrejectが続く場合には別のネタでの検討を開始する」「査読期間に入ったら並行して別の研究ネタを仕込んでおく」など、特にジャーナルに関してはあらゆる場合を想定した計画を貼り出していました。

そして、一つ確実に言える事は「無茶なことをしてはいけない」です。最後の最後あたりでようやく学習しましたが、無茶をすると体を壊します。下手をするとメンタルも壊します。正直ずっと仕事も並行しているため現在進行形でなかなかにボロボロです。
在学中に何名か社会人博士の方を知ることになったのですが、その方々は最初から3年以上計画で事を進めていました。仕事との両立を考え、心身への負荷を考えたら妥当なご判断だと思っております。

今回のPh.D. Studentとしての活動により社会人博士は実際とても大変であることをこの身を以て体感いたしましたが、成し遂げられた事嬉しく思います。

体力が切れた。
兎にも角にも、まずは体力を回復させたい。メンタルも回復させたい。